1770年12月16日。

ドイツのボンという町でベートーベンは生まれました。

父はヨハン。

母はマグダレーナ。

おじいさんのルートビッヒの家庭です。


おじいさんはお城の音楽隊の隊長です。

おじいさんと同じルートビッヒと名づけられます。


ベートーヴェンはドイツ西部を流れるライン川下流のボンで育ちます。


お父さんのヨハンは宮廷の合唱隊の歌手をしていました。

ある日。

ルートビッヒおじいさんがピアノに触らせた所。

おじいさんがさっきまで弾いていた曲を見事に演奏して家族を驚かせます。

二歳の頃でした。

ヨハンはベートーベンの才能に驚きます。


ベートーベンが大好きだった。

おじいさんが亡くなります。

次の年に。

弟のカールが生まれ。

ヨハンが生まれました。

父親はとてもいいお父さんでしたが。

困ったクセがいくつかあったそうです。


父親はベートーベンの才能に目をつけ。

第二のモーツァルトにするべく立ち上がります。

この頃。

モーツァルトは天才音楽家として名を馳せていました。


さっそく。

ピアノの猛練習が始まります。

かなりのスパルタで。

厳しい稽古でしたが。

父親の鞭のおかげで。

ベートーヴェンの才能は実っていきます。


1778年3月。

ドイツのケルンという町の演奏会でピアノを弾いたところ。

大成功し。

天才少年だと称賛されました。


父親の友人のブファイヤー先生をつけられ。

次にお城の楽団のオルガン奏者のネーフェ先生に教えてもらっています。

10歳の頃でした。

ネーフェ先生はオルガンや作曲の仕方をベートーヴェンに仕込みます。


オランダへ演奏旅行に出かけて大成功でした。


1782年。

ネーフェ先生が推薦して。

お城の楽団の助手になります。

教会でのオルガン奏者を務めるようになりました。

11歳のオルガン奏者は有名になります。


医学生のベーゲラーと友達になりました。

ベーゲラーの紹介で。

ブロイニング家というお金持ちの家でピアノ教師を務めました。


ネーフェ先生に初めて作曲した楽譜を見せましたが。

普通の評価でした。

が。

先生はそれを出版してくれました。


1784年。

お城の第二オルガン奏者として迎えられます。


1787年3月。

16歳のベートーベンはウィーンに行く決意をします。

ウィーンは音楽の都として栄えていました。


ウィーンでモーツァルトに会います。

即興曲を弾いたところ。

モーツァルトに絶賛され。

ウィーンの貴族たちも歓迎しました。

ベートーヴェンはそのままモーツァルトに弟子入りするつもりだったようです。


ボンに戻ります。

母親が病に倒れたからです。

母親を結核で亡くします。

悲しみのピアノを弾いたところ。

ワルトシュタイン伯爵がそれを発見し。

ピアノを贈るなどいろいろ応援してくれました。


1792年6月。

有名なハイドン先生がボンにやってきます。

作曲した曲が素晴らしい出来栄えだったので。

ウィーンに招待されました。

モーツァルトは亡くなっていました。


1か月後に父親が急病で亡くなりました。


ウィーンで小さなアパートに落ち着きます。

ベートーベンは勉強に夢中になりました。


ワルトシュタイン伯爵のいとこの。

リヒノフスキー侯爵の屋敷に招かれます。

ピアノの腕比べをおこなって。

有名なゲリネック神父を圧倒しました。

気に入られたベートーベンは。

リヒノフスキー伯爵の屋敷で暮らすことになりました。


1795年3月29日。

ブルグ劇場でじぜん演奏会に出演しました。

同じ年の12月にはハイドン先生と一緒に演奏会を開いています。


リヒノフスキー伯爵の家を出ました。

ボンからふたりの弟を呼び寄せています。

25歳のときです。


耳にウイルスが入ったようで。

このときから耳の異常に苦しみます。


1789年7月。

フランス革命が起こります。

腐敗した王様を倒して自由な国を作ろうとする運動です。

革命軍はドイツにまで攻め込んできました。

ベートーベンは。

民のために立ち上がったナポレオンを歓迎して。

ナポレオン・ボナパルトを称える行響曲を作曲しています。


1801年。

ジュリエッタという美しい貴族の娘にピアノを教えています。

ジュリエッタとベートーベンは恋仲になっていましたが。

ジュリエッタはガルレンベルグ伯爵と結婚することになっていましたので。

ベートーベンは月光のソナタを贈りました。


ベートーヴェンの耳の具合が悪くなり。

まともに人の話が聞こえないので。

補聴器を使っています。


ナポレオンが皇帝になったのを聞いて憤慨しました。


自分の作品「フィデリオ」が上演されましたが。

真面目過ぎて普通の人は楽しめませんでした。


1808年に第五行進曲が発表されました。

後に「運命」と呼ばれる曲です。


この頃に幾多の大作が書かれています。


1809年。

ベートーベンが38歳のとき。

ウィーンに。

皇帝ナポレオン率いるフランス軍が乗り込んできました。

演奏会が開けず。

ベートーベンの生活が苦しくなってきました。

そんなとき。

ドイツのウェストファリア国王からカッセルの宮廷楽団に誘われますが。

ルドルフ大公とロブコビッツ侯爵とキンスキー侯爵が年金を出して引き留めました。


1812年。

ドイツの詩人ゲーテと会いました。

ゲーテはワイマール国の宮廷顧問官をしていましたが。

ふたりで歩いていると。

夫人がやってきましたが。

夫人に道を開けなかった為に。

喧嘩別れしてしまいます。

芸術家のほうが貴族より偉いという信念を持っていたベートーベンでしたが。

宮廷に仕える身であるゲーテから見れば失礼過ぎたのです。


ナポレオンの力が弱まり。

1813年12月。

ウィーンで久しぶりの演奏会が開かれます。

これも大成功に終わりました。


弟が亡くなり。

弟の息子を引き取ります。


1822年10月。

52歳。

ほとんど失聴していました。


書き直された「フィデリオ」が上演されます。


ウィーンのケントナール劇場で。

歓喜の歌(第九行響曲)の発表のとき。

指揮をします。

この曲は最後に独唱と合唱をつけた。

新しい形のものでした。

失敗を避けるために。

ウムラウフとふたりで指揮して。

ドイツの詩人シラーの歓喜の歌が高らかに歌いあげられ。

一時間を超える演奏が終わったとき。

人々は心からの拍手をベートーベンに贈りました。

このとき。

アンコールに5回も応えました。


1826年。

55歳の春ごろから。

いろいろな病気が酷くなり。

寝込むことが多くなりました。

さらに。

16歳になった弟の息子がたくさんの借金をして。

ピストルで自殺しようとしましたが。

一命をとりとめました。


秘書のシントラーがシューベルトの歌曲集をベートーベンに見せたところ。

ベートーベンは気に入り。

何日も眺めていましたが。

とても絶賛しています。


あるとき。

シューベルトがお見舞いにやってきたのです。


1827年3月26日。

嵐の日。

ベートーヴェンは亡くなりました。

56歳でした。

最後の言葉。

「みなさん拍手を、喜劇は終わった・・・。」


ベートーヴェンの葬儀には一万人の人々が集まり。

偉大な音楽家の死を惜しみました。

シューベルトも参加しておりました。


楽聖と呼ばれたベートーヴェンの生涯でした。